湘南高校文化祭の年表


この年表は湘南高校記念誌に掲載された文化祭に関する記述を集めて、時系列に編集しなおしたものです。 和暦の年度は経年を理解しやすくするために、西暦に直しています。

1948年

第一回湘高祭

1948年の秋も深まった11月初旬、新制高校発足記念と銘うたれた第一回湘高祭が開催された。 4月に予定していた運動会が雨のため順延になったので、6日、7日の文化祭へと三日間連続の湘高祭となった。

準備は従来の企画委員から選出された執行委員を主体にして、もっぱら生徒の手で行われ、職員とPTAは影の援助役にまわった。 これこそ自治への第一歩という意気込みは少々の難点を覆いつくし、その収穫も大きかった。

六日もあいにくの雨だったが、展覧会場、芸能会揚(かっての武道館)ともに盛況だった。 ことに演劇では、一日二日三日と希望各組の予選を経た入選劇が演じられ、菊地寛「屋上の狂人」 (高一)、フランスの喜劇、 「署長さんはお人好し」が抜群だったほか、 有島武郎の「ドモ又の死」をもとにした「かりそめの死」、レディグレゴリー「月の出」や中三による「夢」、鈴木泉三郎「生きてゐる小平次」がそれぞれに好評を博した。 板敷きにゴザを敷いただけの粗末な観客席に朝九時からつめかけた熱心な観客は、四時終演が二時間近く延びても、立とうとする気配さえ示さなかった。 それは人々がただ娯楽に飢えていたというだけからではなかった。 「新しい時代」を若い子弟の動きの中からつかみとっていこうとする熱意のあらわれだったのだ。
それだけではない。若い子弟に心からの援助をおくろうと乏しい物資を持ちよってバザーも開かれたし、有志の母親による母の会売店という喫茶店も設けられ、コーヒー、ココア、お汁粉に暖かい愛情をこめ、またリンゴ、みかん、アメ、アンパンなどを校内に売り歩き、芸能会場の中売りもして喜ばれた。 その売上げは校内の電話設備の費用に充てられることになっていた。

この活気と、この喧騒と、この雑然と、この意欲と、それはまさに民主主義の上に文化国家を標榜した新生目本の縮図でもあったのだ。 「湘高祭が我々の手で我々のために出来たという、この意義は大なるものがあると思う」、そう自らに評価を下した新聞子(刷新第三号)は、 「我々は我々のプライドのためにも湘高祭を意義あらしめなくてはならない。 これが我々の自治によって湘南を立派にする基となり、我々によって行なわれた自治の成果ともなるのだ」と今後に強く呼びかけていた。

準備から実施へと長い苦心を経てすぺての後片付けも終り、再び平常の勉学へと立戻って登校した朝、門の傍の黒板に誰が書いたのか、 「祭は終った 秋が 深い」の三行が朝陽をうけて、さわやかに輝いていたのを、いまも忘れることができない。

1949年6月 第二回文化祭
1950年5月 第三回は、運動会と切り離して開催された。
三回目の文化祭に際して、浅井校長は惰性に陥らないようにと、次のように生徒に呼びかけた

一、日常修学修養している学業の成果を、総合的に表現して、
      白己の教養を深め個性と天分を発揮すると共に、
      他との協力一致によって、学校共同生活を味い楽しむ学園環境を創作すること。

二、実験と説明、デコレーション、演劇、音楽等において共同的作業に依って共同社会的協和性を高める

(新聞一五号)
1951年 三十周年記念祭の行事の中で芸能祭として行なわれ、10月に、運動会をその一部として数日後に文化祭をつづける形で第四回湘南高校祭が開催され、 1961年度までこの形が踏襲されることになる。
文化部の発表中心という文化祭の新形式は、各クラブの真摯な努力によって一応の成果を示し、各組競演の演劇は全くその姿を消した。
1952年

湘南三十周年
その内容などへの反省から、試みとして各文化部が個別に発表する形をとり、文化祭は開催しなかった。

1951年の三十周年記念祭のあとから「文化祭」の意義についても繰りかえし討論がおこなわれていた。 お化け屋敷、迷路、釣り堀が「文化」の名に価するか、お祭り騒ぎにどれほどの意味があるか、といった価値論から、 また実施のために費される職員・生徒のエネルギーと費用に比してその成果はどうか、あるいは全校参加の名の下で果してどれだけの生徒が動いているか、 ある部分の生徒はこれ幸いと受験勉強に没入して、かえって生徒間に断絶を深めてはいないかといった実際論から、論点は整理しきれないほど多岐にわたった。
そうした中で1952年はひとつの試みとして各文化クラブが個別に発表するという形をとったが、生徒たちはそれを、 「勉学に支障を来たすという理由で中止され多数生徒の失望を招いた」 (新聞41)、そんなふうにしか受けとめていなかった。

1953年 1953年2月の新聞部調査では80%の生徒が開催を希望した。
「逆行することはできないけれども、むしろ『反受験体制』とでもいうべきものを考えていた」(談話)松川校長は、クラブ活動の停滞、弱体化に対して積極的に対処しようとし、 その意見も反映して職員・生徒の間で打ちだされた新らしい方向は、「各クラブを主体とした発表の場としての文化祭」に徹していこうということだった。
そして、生徒会、文化部、運動部から各二名の六名と、職員五名とからなる企画委員会によってそれを具体化していくことが決ったのは、すでに6月のことだった。
1954年 文化祭参加各部の研究発表をまとめた雑誌「広場」が創刊され、 一部ホームルームを会場とする部の展示が認められ、 これはやがて拡大されて、全校の教室を使う形をとるようになっていった。
1958年 火災のために中止
1960年

全定通合同での開催
当初から参加していた定時制に加えて、通信教育部も参加し、全定通合同の文化祭を開催することとなった。 また、その企画・運営も生徒の実行委員会の手へと移されていった。

1962年

湘南四十周年
6月の四十周年記念式典に続いて行なわれ、これを機に、文化祭は運動会と時期を異にした六月の行事として定着
1963年 それまでの有料入場制度が廃止となった。
通信制の文化祭活動
(1966-1977年)
通信制では共同作品に重点をおいた。クラブ、各支部(林研、少工校、大同、准看組)と6ケ所の共同学習より出品された。しかし各パートに分極化統一性を失った事と、 個人的に参加したいとの要望にこたえて、1975-1977年度は、個人作品を中心として出品、それ以後はクラスでの共同作品も加わる事となった。
1972年

湘南五十周年
五十周年を記念して催された1972年度の文化祭は、それにふさわしい新企画がみられた。
文化祭史上初めてという統一テーマ「創造と協調」が設定され、文化部も積極的に取り組み、実行委員会では、対話を試みるための「ソクラテスの部屋」と、 職員・生徒・卒業生から集めた品物を即売する「湘南いちぱ」を設けた。 その即売の日は開場一時間前から行列ができ、何回も入場制限するという盛況ぶりであったという。
1975年 昭和五十年代に入ると、長年文化部研究の発表の場として開催されてきた文化祭にも、次第に変化が生じはじめる。

1975年の文化祭には、文化部の発表を中心としながらも文化祭実行委員企画にお祭り的要索を入れることを基本方針とした。 そのための特別企画としては「湘南日和プロジェクト」として禅・クリオの小径などとプロメティウスに挑戦、はばたけベガサスなどといった名称のものがあり、 前年は武道館で行ったエレキバンドをファイヤーの一部として中央階段付近で行った。

1976年 1976年度はクラブ以外の有志が団体で参加することが初めて認められた。 ただ有志参加には条件があり、文化的な活動であること(屋台・お化け屋敷他のお祭り要素は認めない)、金銭の授受のないこと、 原則として飲食のないこと(喫茶店などはだめ)、その他、他人の迷惑にならないこと、参加資格は湘南生であること、などだっだ。

有志参加を認めてもたんなる学校祭的文化祭になるのではなく、文化部研究発表の場であるという今までの伝統が尊重されていた。 (湘高新聞一五〇号)。 その結果、有志はあやつり人形・演劇・映画各一にバンド七の計十団体が参加した。
さらに、全校生徒の一層の参加を促すぺく祭り的要素を拡大しようとする実行委員側の要求が強まり、 一方で従来の内容を尊重しようとする職員や文化部との意見の対立を見せるようにもなった。

1981年

1954年以来の
協議会開催
基本方針をめぐって、昭和二十九年以来の協議会が開かれ、その結果、学校としては、文化祭を文化部一年間の活動の成果を結集する場としてとらえ、 今までどおりの文化部発表を中心とする文化祭を行っていくことが改めて確認されて、以後へと引き継がれることになった。

1981年には、文化祭を「湘南祭」と改名することで、広く全校生徒が参加できるものにしようと考えた。全校署名も行ったが、実現には至らなかった。 その後は、文実の呼び掛けに対して、一般生徒の関心が低く、有志参加の希望がほとんどない状態であった。

1986年には、「文化祭全体を見渡し、その発展に努める」という目的で、文実内に総務パートが設立され、さらにこの年から、喫茶店の運営が、 それまでの文実の委託から有志化された。しかし、実質的には色が引継ぐ形でその後に至っている。

1986年

第四十回文化祭
文実の積極的な宣伝により、クラスやグループによる有志参加が前年度より七団体増加した。 サブタイトルの『ペレストロイカ』が示すように、多くの、そして大きな変化があった。

文化祭の基本方針には、「クラブ活動の発表を軸として」という語句で、文化部の発表を重視しながら、毎年決まったように「全員の参加を目指し…」という語句も入っている。 「全員の参加」の中には、「文化祭実行委員会に加わり、文化祭の運営に参加する」「文化部の発表を見学することによって参加する」という意味が含まれている。 しかし、文実は見学を真の参加とは考えておらず、少しでも、文化部以外の生徒がクラスや有志として参加できるようにと、模索してきた。

食堂には新しく「ピザハウス」が加わり盛況であった。 また、文化祭の前夜祭的催しである、参加団体の発表内容を紹介する集会もおこなわれた。

女子の下校時刻が六時半に繰り下げられたのも、この年からである。 女子の活動が盛んな文化部から、少しでも準備時間を長くしてほしいという強い要望が出され、生徒の署名、協議会等をへて、三十分の繰り下げが実現した。

また、多くの生徒が参加しやすいようにと、後夜祭が上庭へと移された。 この年の後夜祭には、定時制のバンドも参加し、本校の文化祭が全・定・通合同の行事であることを印象づける意味で意義深いものとなった。

このように、多くの改革がなされた文化祭であったが、一方で、有志参加の増加により予算・使用教室が削減されるのではという危惧や、 文化部を軽視しているのではという疑心から、文化部が文実に対して不信感を募らせたり、 職員会議でバスケットボール部のフリースロー大会が否決されるなどのいくつかの間題も残した。

1989年、1990年 第四一回(1989年)、四二回(1990年)、文化祭は、「ペレストロイカ」の流れを引き継ぐものとなったが、 とりわけ、第四二回では、教室の不足を補うため、中庭に青空ステージが設けられたり、地域のお年寄りとゲートボールを通じて交流しようという 企画のためにグラウンドが使用されるなど、新しい試みがなされた。
1993-2002年

    80年誌での
    この10年の回顧
プレハブでの文化祭では、文化部に加えてクラスでの参加もさかんで、空き教室がないにぎわいであった。机や暗幕などの備品は不足状態であった。 プレハブで設備が整わない中で、特別会場は広い部屋に自前でステージを組んで発表したり、ライブは音が漏れないように会場に段ボールを何重にも張り付けるなどの工夫も見られた。 特に電気の問題は深刻で、ライブは電線から直接電気を引<などして対応した。

新校舎完成後は教室や備品にもゆとりができ、余裕を持った発表が可能になった。
しかし、その一方で増え続けるゴミが大きな問題となり、焼却炉の使用禁止ということもあり、1998年の文化祭からゴミの減量化に取り組むこととなった。
1999年からは通信制のエコクラブや、慶應大学SFCのサークルの協力で使い捨てのVを使わずにゴミの減量化をめざすDRP(Dish Return Project)を導入した。
加えて、環境に負荷の少ない洗剤の利用や生ゴミの堆肥化をすすめた。また迷路などから出る大量の段ボールを資源ゴミとして再利用ができるようにした。 このような活動を行うエコバートが新たに生まれている。

いままで多数の運動部の生徒が文化祭を裏方として支えてくれてきた。白分の練習の合間に雑用をこなし、運営してくれている。 しかし、部員数の減少などにより今まで通りではうまくいかないことも多くなってきている。

また、実行委員レベルでは他課程の生徒や教員との交流も見られるが、一般生徒の間では交流は少ない。 実行委員会では三課程合同企画等を企画しているが、三課程間の交流という意義は最近は薄れてきているように思われる。


定時制

数年前までは定時制の参加規模が小さく、生徒も惨めで悔しい思いをしていたようだが、最近は文化部以外に、学年単位で参加し、 発表、展示、販売とも全日制に勝るとも劣らない充実したものになってきている。