浦高戦を知ろう   

  浦高戦と聞いてどのような印象をお持ちでしょうか。「浦高ってどういう学校なの?」「えっ!そんなところまで行くの?」「5時起きで、貸し切り列車?」「どうしてそんな事してるの?」等々多くの「?」があると思います。 私達PTA体育委員会にとっても同じでした。 実際に、浦高戦を企画・運営しているのは浦高戦実行委員会、通称"浦実"の生徒です。 PTA体育委員会は、当日浦高のPTAの方々との交流を行っていますが、よくわからない事ばかりでした。 しかし、2001年に創立80周年を迎えるにあたり、45年にわたる浦高戦の歴史を調べる機会に恵まれました。 どのように始まり現在に至ったのか、知ることが出来たのです。

  そこで、一人でも多くの生徒、保護者の方々に浦高戦に対する理解を深めていただけたら幸いと思い、ここにまとめる事といたしました。
  浦高戦の「?」を解明するためにその歴史を知る事から始めてみましょう。


定期戦のはじまり   

  湘南浦高定期戦の発想は、そもそも浦和高校にあった。 浦和高校では、昭和30年代を迎え学業とスポーツの両立を目標として学校の発展に努めていた。 大学進学においては公立高校として全国的に見ても優秀な成績をおさめ、各種スポーツも盛んでサッカーはたびたび全国優勝するなど立派な成績を上げていた。 しかし、これだけで満足することなく、他校との交流によって切瑳琢磨の上、一層の充実発展をはかるべく定期戦の構想が浮かび上がった。 そこには、一高三高(現在の東大、京大)定期戦といった、かつての旧制高校時代へのひとつの郷愁があったのかもしれないし、また戦後各県の教育委員会単位にしばられがちなものから、県境を越えて交流を広げたいとする意欲があったのかもしれない。 そこで相手高として候補に上がったのは、日比谷、教育大付属、熊谷、前橋、湘南といったところで、全校投票の結果湘南が圧倒的支持を得たというのである。 それは、ひとつには、東京への距離と位置がそれぞれ似ており、サッカーや野球が全国優勝するなど、浦高同様にスポーツと勉学の両立を果たしているというのが理由のようだった。 また、1955 (昭和30)年に発行され一世を風靡した「太陽の季節」の著者である石原慎太郎氏の出身校であったことも当時の若者の関心をひいたようである。

  1957(昭和32)年4月13日に、浦和高校新聞部の志村嘉一郎氏と進藤幸彦氏らが非公式の打診と取材を兼ねて、湘南新聞部を訪れたことからはじまった。 これをきっかけとし、8月17日浦和高校から木村泰夫校長、生徒会顧問と生徒会役員が来訪し、正式な申し込みを受けたのである。 当時の松川昇太郎第4代校長は「プロポーズされたものは受けたい。良い縁談だから」という意向を示し、それに沿った指導部の職員によって積極的に推進された。 生徒委員会でも「新しい伝統」を生み出そうと定期戦案を可決した。 そして「両校生徒職員の親睦、交流を図ること」を目的として、毎年1回会場を1年交代として遠征しあう、種目はその年度の実情に即してきめ、 総合成績によって優勝を決めるということになり、初年度は、野球、サッカー、ラグビー、バレーボール、バスケットボール、軟式テニス、柔道、卓球の8種目で争われることになったのである。


いよいよ浦和へ   

  秋晴れとなった同年10月19日、湘南の選手、応援団、職員500余名(当時の全生徒数は約1200名、そのうち女生徒は約120名)は、1200名の浦高生に迎えられ、垂れ幕の飾られた北浦和駅に下車、沿道の拍手と、商店街の「歓迎湘南高校」の飾り付けの中、ブラスバンドの演奏に導かれて浦和高校にのりこみ第1回定期戦が行われた。 勝負は、バスケットと卓球に勝利し、野球に引き分けたものの2勝5敗1分と湘南の完敗に終わったが、参加した者にとっては、さわやかな1日であったことだろう。

  また、このときの浦和遠征には、PTA委員も若干名同行していたという記録がある。 浦高PTAとの長い交流の歴史は、まさに第1回目から始まっていたのである。
  第2回は、翌1958(昭和33)年10月15日浦高が学校をあげて湘南を訪れている。 選手、生徒、職員、PTA役員ら総勢1500人が臨時列車を仕立てて参加し、藤沢駅から湘南高校まで、ブラスバンドを先頭にパレードも行われたそうである。


両校の全校交流に発展   

  その後1960 (昭和35)年の第4回からは5月実施となり、やがて運動部だけの定期戦から文化部の交流をも含めた全校を挙げての定期戦となった。 全校交流となって、湘南から浦和へは、しばらくの間バスを連ねての移動を行っていたが、交通事情の悪化によって、1971 (昭和46)年から再び電車輸送となった。 この時期には、1963 (昭和38)年に「対浦和高校定期戦交歓歌」の「朝の歌」「夕の歌」「若さの限り」の3曲が作られたり、 翌1964 (昭和39)年には優勝旗と各種目のトロフィーが作られたりと盛り上がりが感じられる記録が残っている。
  さらに、1976 (昭和51)年には、第20回を記念して記念樹を交換し、会場校であった湘南高校の玄関前に銀杏とカイドウを植えたということである。

  第4回に初勝利をして以来、良きライバルとして拮抗した内容の戦いを繰り広げ1980 (昭和55)年の第24回には、湘南が10勝1敗の大勝利を収め、 通算成績もとうとう12勝12敗の5分に持ちこむことができた。


薄らぐ関心   

  その翌年頃から、生徒を大量に輸送することの困難さや女生徒の増加に伴う男子校である浦和高校とのアンバランス、短い滞住時間、 多い欠席者や無関心な生徒等々が問題となり、湘南高校の数多い行事の中で、その存続を含めての論議が持ちあがるようになってきたのである。
  そんな中、1984 (昭和59)年には、職員の中に浦高戦の存廃を審議するための浦高戦検討委員会が設置された。 検討委員会は職員にアンケートを実施したが、結局は校長をはじめとして、約60%の職員が存続を希望したため、存続を前提にして浦高戦の改革を検討していくことになった。
翌1985(昭和60)年に出された答申には、「行事内容はクラブ対抗、一般選抜対抗を中心に」と明記され、浦高戦が運動部の発表の場であることがはっきりと位置付けられた。

一方、生徒の間でも、浦高戦の存廃は論議されているが.1982 (昭和57)年に浦実が行った全校生徒に対するアンケート結果(廃止賛成16%)が示すように、やはり、廃止してしまおうというところまでは、いかないようである。 結局、浦実は対抗戦を重視しながら、出来るだけ多くの生徒が参加し、浦高生と交流を深め、楽しめるものにしていこうと考えるようになった。


新しい浦高戦   

  1984 (昭和59)年には囲碁・将棋や一般選抜種目が加わった。 またこの年、女子バレーボール部が一般選抜に参加し、初めて女子が得点に関与した。 1985 (昭和60)年にはオセロや百人一首など勝負のつく催事が取り入れられたが、1986 (昭和61)年には、前年に出された浦高戦検討委員会の答申に基づき、対抗戦に重点が置かれ、催事はおこなわれず、クラブ交歓会も短縮された。 1987 (昭和62)年も催事は行われず、かわりに出来る限り多くの人が対抗戦に参加出来るようにと、リレー、サッカー、綱引き、ドッジボール、玉いれ、腕相撲などの一般選抜種目が追加された。 1988 (昭和63)年には、新しい企画である〇×クイズが閉会式前に行われ盛り上がりを見せたが、皮肉にも、このクイズに破れ逆転で対抗戦にも破れてしまうという結果に終わった。 1990 (平成2)年には、校舎内からロック演奏が聞こえてくるようになり、現在に至っている。


そしていま・・・・   

  1992 (平成4)年から1998 (平成10)年までの7連敗を背負って、1999 (平成11)年は晴天のもと浦高へ向かった。 田村校長(当時)の「勝ちに行く」宣言を受け各部活が奮闘するがなかなか結果は出ず、また今年もかと誰もが思いながら迎えた最後の大玉ころがしが奇跡の大逆転となり、久々の勝利となった。

  2000 (平成12)年、湘南に浦高を迎えた。 昨年につづき今年も勝利をという願いもむなしく、総合得点616対514でまたしても敗北を喫してしまった。 かくして現在の通算成績は、15勝29敗、2001年の第45回大会の結果によっては、なんと、ダブルスコアとなってしまうのである。

  とはいえ、浦高戦の意義は勝ち負けだけではない。 卒業後、大学や職場で出会った浦高、湘南両校の卒業生は、お互いに旧知の友のような親しみを覚えるという。 これこそが、2県にまたがる45年間の交流の成果と言えるのではないだろうか。


対抗戦を支えるカ   

  45年の交流は、両校の先生方と各年代の浦高戦実行委員会(湘南で言えぱ)の尽力」によって支えられてきました。 改めて歴史を振り返った今、彼らの努力の大きさを知る事になりました。 これからも、その時代にあった新しい浦高戦の姿を皆で探っていきたいと思います。




前ページに戻る 次ページへ