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■セミナーの講演概要 (後編)
今から7年前、42回生が校歌祭の実行委員を務める年であった。仲間から校歌祭で指揮をするようにとの連絡をもらう。校歌祭と関わるきっかけであった。送られてきた山田耕筰先生直筆の楽譜を前にして50年ぶりとなる校歌との再会であった。
現役の時は吹奏楽部に所属し指揮を担当していたので、いつも校歌の伴奏が役目であった。したがってあまり歌ってはいなかった。その頃は湘南高校の校歌はやけに元気な曲だという印象しかなく、白秋先生の詩も耕筰先生の楽譜もあまり関心を持つことはなかった。
送られてきた楽譜に目を通すとまず白秋先生の詩の圧倒的な力に感嘆した。なんという語彙の豊かさ、詩人とはこれほどに豊に言葉を操るのかと。しかし不思議にも三番の歌詞が記憶に残っていない。恥を忍んで当時の副校長先生に電話をかけ正しい読みを教えてもらった。三番の歌詞は戦時色の匂いがするので歌われなかったのではとの思いも巡ったのだが、その後諸先輩から戦前戦後我が校歌は何一つ変わることはなかったと教えていただいた。しかし実は変わっていたのだ。
話を少しずらし、続きの前に校歌祭で学んだことをお話ししたい。
普通音楽会本番の前にはゲネプロと言って本番の会場で練習をする。しかし校歌祭ではぶっつけ本番だ。ゲネプロ無しでステージに立つことは生まれて初めてのことである。一週間前に湘南高校多目的ホールで事前のリハーサルを行なったが湘友生は30名弱の方しか参加していない。ということは当日130名の参加者の中で100名はぶっつけ本番で校歌を歌うことになる。考えると恐ろしくなった。
しかしこの不安は杞憂であることがすぐにわかった。前奏が始まり第一声が会場に響き渡った瞬間、私は校歌が如何なるものかを悟ったのである。校歌、その歌声は弾けるように会場に響き渡った。そうなのだ、校歌とはいつ如何なる時にでも心の中から湧き出てくる歌なのだ。そのことを理解した時、私の指揮棒は踊った。
それ以来私は校歌を深く愛するようになった。翌年から校歌祭委員として仕事を始め、2年後委員長を引き継いだ。しかし続く2年間はコロナのため校歌祭は中止となった。その間私は一つのことに全力を注いだ。実は校歌の一部の歌い方が変わっていたのである。元に戻さなければならない。
7年前の湘友会総会の時であった。近くに会長の姿が見えたので今年の校歌祭では指揮をすることになりましたと挨拶しようとしたところ、突然叱るように数名の先輩から三番の「立身報国」の部分の歌い方が違っている、直さなければダメだと言われた。何か狐に摘まれたような思いになりその場では理解できなかった。後日改めて楽譜を読み、録音された校歌の音源を聴いたり何人の人にも実際に歌ってもらったりした。すると楽譜Aの歌い方が正しいのだが、楽譜Bのように歌っている方がいることがわかった。
(楽譜校歌3番参照) ↑画像をクリックすると拡大します。
およそ80回生の頃から楽譜Bの歌い方に変化したことも分かってきた。その原因の最もはっきりしていることは耕筰先生が一番のみしか楽譜に歌詞を書かれていないことにある。したがって縦書きに書かれた詩を見ながら二番、三番を歌わざるを得ない。そのため楽譜と離れた歌い方が生じる可能性があったのだ。したがって何よりも三番まで歌詞が書かれてある楽譜を作ることが急務である。
私は当時湘南高校で音楽の指導をされていた岩本先生を訪ね、私の立場をお話しした。岩本先生は理解して頂き三番まで歌詞が書かれた楽譜を作ることに同意していただいた。またせっかく作るのなら耕筰先生が残された手書きの楽譜のコピーに書かれてある一番の歌詞同様文語体で作ってみようではないかと息を弾ませられた。それから半年をかけて私がコンピュータに打ち込んだ楽譜を細かくチェックして頂きおよそ10回に近いやりとりを繰り返し100周年式典に間に合った。100周年式典の当日舞台では合唱部による無伴奏四部合唱の形で校歌が歌われた。三番「立身報告」のところは見事に楽譜通り歌われたのである。
白秋先生の書かれた校歌の歌詞からは汲み尽くせぬ母校への想いが沸き起こってくる。しかしここでは耕筰先生が残してくれた楽譜を読み解いていきたい。
音楽には拍子というものがある。例えば4分の2拍子という曲は1小節の中に4分音符が二つ入っており、1、2、1、2、と拍が数えられる。それだけではない。1拍が強拍で2拍目が弱拍という拍そのものの性格を持っている。歌曲を作曲する上で言葉そのものが持っているアクセントと音楽としての拍子が持っているアクセントを一致させることは大切な要素となる。
50年ぶりに校歌の楽譜を目にした時まず気がついたことは強弱に関する記号が多いことであった。その答えは以下のことから理解できた。すなわち言葉として強く歌うべき音が弱拍に置かれている場合が多いのだ。したがって弱拍ではあるが強く歌って欲しいところにフォルテの記号を耕筰先生は書き入れたのだ。例えば「秀麗の富士を高く」の「た」の音は言葉として強く発音する。言い方を変えれば高い抑揚で語られる。しかし2泊目、すなわち弱拍に「た」音が来ているのだ。自然に歌詞のことを考えないで歌えば高くの「く」音が強く歌われることとなる。これでは困る。
さらに「巍々たり我が校」では言葉としては巍々の始めの「ぎ」、我が校の「わ」、校の「こ」が強く歌わなければならないことになるのだが、皆弱拍に来ている。これらを数えてみると一番だけでも十六箇所を数える。そしてその箇所に音楽的には弱拍であるが強く歌うことを促すフォルテの記号が書かれていたのである。
この校歌は冒頭の「秀麗」の歌詞が8分音符の弱拍から入るいわゆる弱起の曲として歌われていることはお気付きだと思う。この部分に関して耕筰先生は四通りの草稿を残している。始めの部分を「しゅう」と口語体で書くかそれとも「しう」と文語体で書くか、また弱拍からのスタートではなく強拍から開始するかも含め、耕筰先生は冒頭の部分に相当時間をかけられたことが窺える。改めて冒頭の部分を見てみよう。冒頭にはフォルテの記号が書かれている。ということは「しゅうれいのふじを」を歌う時「しゅ」は次の「う」より強く歌わなければならない。弱拍から始まる曲で次に来る強拍よりも冒頭の弱拍の音の方が強く歌われる曲に私は出会っていないように思う。このように歌うことによって「秀麗の富士」の部分は広がる富士の裾野のようなフレーズとなるのである。
(校歌楽譜参照) ↑画像をクリックすると全歌詞 w/楽譜 を見ることができます。
以上述べたことに加え、今一つ大切なことがある。楽譜をよく見ると8分休符が多く書き込まれていることに気付く。しかし録音された校歌の音源を聞いてみると二つに一つは繋げて歌われてしまっている。休符とは単にフレーズの息継ぎのためにあるのではなく、次に来る音を大切に歌うべくその準備にエネルギーを蓄えるためのものと私は捉えている。自身で何度も歌ってみると耕筰先生の思いが理解できた。それは弱拍ではあるが強くはっきりっと歌って欲しい音符の前に8分給付を書き込まれたのである。休符の次に来る音に力を込められるようそのための8分給付であったのだ。
次に最も基本的なこととして校歌のテンポ、すなわち速さについて語りたい。耕筰先生は4分音符を1分間に120回打つ速さを指定されている。しかし校歌祭で歌われるときは大体110回打つ速さほどで、耕筰先生の指定された速さよりだいぶ遅いものとなっている。私は120のテンポで幾度も歌ってみた。すると拍の強弱のことも8分休符のことも全て楽譜に記されたことが流れる水の如く自然に表現できたのである。曲の速さがどれだけ大切なことか改めて学んだのである。今後、校歌は120のテンポで歌っていきたいと思う。
その他として卒業50年にしてはたと気がついたことを申し上げたい。それは、当時は湘南中学であり男子校であったということである。両先生はご自分が作られる校歌は男子の声で歌われるものとしてイメージされていたのである。
また不思議なことにこの校歌の前奏を耕筰先生は明記していない。過去の校歌祭のDVDを見ると年によって前奏が違っている。検討事項であろう。
戦前かの時を生きられた教育者としての赤木校長先生、その教育理念を見事に歌詞として表現していただいた詩人白秋先生、西洋の音楽をいかに日本のものとしていくかに挑み続け、素晴らしい校歌を作曲していただいた耕筰先生。その偉大な3人の方々によってこの校歌は生まれた。時を超え語りかけてくれる校歌を湘友生として仲間と共に歌い続け、若き日に描いた理想を持ち続けていきたいと思う。そのためには校歌は正しく歌い継がれなくてはならない。いかなる回生の湘友生と共に歌おうとも校歌は同じ調べで歌われてこそ心を繋ぐのだ。
日頃校歌祭を応援していただいている皆様に感謝を申し上げて終わりとさせていただきたい。
私の望みは湘南高校200周年の式典で歌われる校歌をこの耳で聴くことである。
だが夢は枯野を駆けめぐるのみ。