第33回湘友会セミナー報告


33回湘友会セミナー報告 

近くて“近い”台湾 ~好きです台湾!! 台湾“ゆう”情物語 ~

平成27年9月26日  14:00~16:00   歴史館スタジオ  講師:小室敦彦(40回生)

はじめに、「“ゆう”情」と題した所以について。“ゆう”には、いろいろな漢字があてはまる。有・友・悠・遊・優・結・宥・勇・雄・佑・祐・幽・憂…….例えば、“ゆう”に「有」や「友」の字を当てはめ、台湾と日本の友好関係を語る。「勇」や「雄」の場合は、戦前、台湾人が日本に示してくれた献身的な精神を思い起こす。さらに「助ける」意味の「佑」・「祐」を使う場合は、東日本大震災時の台湾と日本の絆を再認識できる。良いことばかりでなく、底抜けに明るく楽天的な台湾の人にも、困った点、憂鬱なところがある。それは「台湾“憂”“幽”情」だ。このように、“ゆう”に、12余りの漢字を当てはめることにより、知られざる台湾の全体像を浮かび上がらせようというのが本講演の狙いである。

その狙いは、14ページに及ぶ写真入りのレジメ、スクリーンに映し出される70枚あまりの写真、ボードに貼られた十数枚のポスターや、ちょっとした小道具等の効果も相俟って、ほぼ達成されたとみられる。ただ惜しむらくは、最後の「幽」の部分、つまり台湾が抱える苦悩について、時間の関係上触れられなかったことだ。この点については、多くの人の興味・関心のあるところでもあり、他日を期したい。以下、順を追って、当日の講演の概要を記す。

【1】台湾人に「朋友、遠方より来る」の気持ちがあり。「台湾“有、優、友、 結 you”情」台湾の人が親切なこと、具体的には、4つの「」(「せっかい好き」「もてなし上手」「もいやり精神」「かげさま」)が台湾を訪れる人の心を癒やしてくれるという。

【2】台湾人の中の日本への遥かな思い を「台湾“悠、遥”情」と表現する。

世論調査の結果では、台湾人は老いも若きも決まって「日本が一番好き」。具体例を挙げると、①台湾人が熱望していた「NHKのど自慢in台湾」の放映(なぜ台湾在住の日本人が5組も出ているだ!!)、②台湾人観光客が大好きな江ノ電鎌倉高校前の風景、それに伴う江ノ電と台湾の地方鉄道との提携、③戦前、台湾代表(林学校;KANO)が夏の甲子園で準優勝を果たした(1931年)過程を描いた台湾映画が、昨年来、台湾と日本で非常に話題になっていること、④戦前、日本語教育を受け日本文化に親しみを覚える台湾人を中心に、現在も、万葉への思いを込めた短歌の会(台湾歌壇)が存続していること、⑤また台湾の大学の日本語学科では、4年間で日本の大学の教養課程程度までを学習すること、⑥ほとんどの日本人が知らない、しかし今も台湾で一番尊敬されている日本人として、戦前の八田與一氏の業績(台湾南部の水利・灌漑事業に尽力)。八田氏をはじめ戦前の日本人が現在も台湾人の尊敬を受けていること、⑦台湾には多くの“本統時代”の建築が残っており、今も現役として利用されているものもかなり多く、中には、総府の展示室に、歴代台湾総の写真と事績が展示されていること!!国立台湾博物館には児玉源太郎・後藤新平の像が今も展示されており、その児玉源太郎は、江ノ島の児玉神社の御祭神であること、⑧また、国立台湾大学は、その設立を日本統治時代の台北帝国大学とするが、ソウル大学は同年代の京城帝国大学としないということ、それにちなんで、誰もが抱く『(同じように植民地となったが)台湾の“親日”、朝鮮・韓国の”嫌日”はなぜ??』について、詳細は省くが、一つの要因として、朝鮮では、日本の植民地支配に対する反感として、戦後すぐにも李承晩ライン、「倭」色一掃などの反日抵抗運動が展開されたが、台湾では、戦後中国大陸からやってきた外省人の政府の腐敗と弾圧のために、台湾の人々は、相対的に日本統治時代の方がよかったと考えるようになったという。⑨閑話休題として、台湾の人は、日本統治時代の、たとえば、刺身・漫画・注射・弁当・ネクタイ・オートバイなどの日本語を今も日本語の発音に近い形で使っていることなど、また、同じ漢語を使っても日本と台湾では意味がずれるので注意が必要と言うことも、興味深かった。

【3】日本人も台湾が好き台湾“遊、誘、湧”情、

①世論調査では、60%以上の日本人が、「台湾に親しみを感じ」ており、②WBCの日本と台湾の熱戦(2013年3月)では、→観客席の日本人応援団のプラカードに「台湾、(東日本大震災の時には)ありがとう」の文字が見られ、台湾人選手もこれに返礼(一方、日本選手は、台湾の観客に御礼なし!!)。③宝塚も、台湾人の「熱烈歓迎」に応え、2回の台湾公演(2013.4、2015.8)は、とも大好評だったという。 ④芸能の面では、今も衰えぬ日本国内の鄧麗君(テレサテン)の人気、今年は没後20年。広東語で歌う「星(すばる)」(1982年 香港 ライブ )にテレサの社会派歌手の一面を見る。⑤また現代の台湾でも日本人の建築家が活躍。その中に同窓生の團紀彦氏(49回生[台湾桃園国際空港及び日月潭風景管理処建設]がいる。⑥また日本人は台湾の温泉が好きで、台北郊外には、日本統治時代を偲ぶ温泉施設が多い。

【4】困ったときの人助け台湾“祐、佑”情、台湾“友”情

① 311東日本大震災の時の台湾からの義援金(最終的には200億円以上)。馬総統もチャリティ番組で呼びかけ。②なのに、日本政府の冷たい対応(台湾からの救援隊を足止め、一周年追悼行事における台湾冷遇)。③一方で、春の園遊会で陛下から駐日台湾代表に「台湾、ありがとう」(2012.4)④日本の若者が東日本大震災に寄せられた台湾からの支援に感謝するため、与那国島から台湾東北部まで遠泳(2011.9)。「NHKニュースウオッチ9」でもトップで紹介。⑤逆に、日本が台湾を援助した例として、戦後、金門島を巡る国共内戦やその後の中華民国軍の指導にあたり、日本の軍事顧問団の存在があった。

【5】日本のために…..戦友として台湾“勇、雄”情

① 原住民による最大の抗日暴動[霧社事件(1930.10)]もあったが、太平洋戦争末期、原住民

は「高砂」義勇隊として日本の南方戦線を支援。また昨年なくなった李香蘭は、映画『サヨンの鐘』(1943年)で、原住民の娘に扮し、出征する日本人の武運長久を祈って見送る場面を演じている。②原住民だけではなく、一般の台湾の人も日本統治には不満を持ちながらも、ある意味、評価する面もあるという考えだが、NHKスペシャル「JAPANデビュー~アジアの一等国」(2009.4)が、台湾を取材後“反日”的意図を強調して編集・放送しているということで、インタビューを受けた台湾人を中心に抗議、裁判沙汰にもなっている。③太平洋戦争末期には、台湾から、少年工(13歳~16歳)が8000人あまり来日、大和で寮生活をしながら、高座海軍工廠で戦闘機製造に従事した。彼らを真心もって世話をしたのが石川公弘氏(28回生)の御尊父であり、それを慕って、少年工たちは「台湾高座会」を結成し、日本で50、60、70周年(2013年)の友好の会を開催している。もちろん、その受け入れの中心は石川氏が担った。これに、同窓のノーベル化学賞受賞の根岸英一氏(28回生)、元NHKアナウンサーの吉川精一氏(34回生)が加わった。彼ら少年工には、今なお、「勤勉」「誠実」「正直」「規律遵守」などの価値観を大切にしようとする“日本精神”(台湾語:リップンチェンシン)が見られる。

【6】台湾の悩み困った状況:台湾“憂”情

① 台湾の正式な国名は中華民国(首都;南京)であるが、1971年10月、国連脱退(=中国を国連に迎い入れ)以後、世界の22カ国と国交関係があるものの、「中華民国」の名前は、世界では、次第に薄れつつある。②では、その代わりに「台湾」を使えるのかというと、それも難しい。それは、中国政府が「台湾」と言う言い方を、独立した国家のような意味合いを持つということで認めようとしないし、現在の台湾の政府も「台湾独立」に繋がるということでいい顔をしないからである。誠に「台湾」と言う語句は、あるときには、「国家」名のように使い、あるときには「地域」名として使う、複雑な内容を持つ言葉なのである。日本の外務省のHPでも、台湾は「地域」扱いなのである。つまり、世界の大半の国は、中華民国という国号は使用せず、また台湾を国扱いしていない。ひとえに、中国政府の顔色を窺ってのことである。したがって、台湾の現政府も国際的な会議やイベントには、オリンピックなどに見られるように、「中台北(Chinese Taipei)」を受け入れつつあるのが現状である。③しかし国交はなくても、日本と台湾との間には、実質、在日台湾大使館とも言うべき、台北駐日経済文化代表処が置かれており、東京以外に、札幌・横浜・大阪・福岡・那覇にその分処が置かれている。④「泣く子と北京には勝てない???」これを何とかしたいものである。現在マスコミ各社は、中国局(北京)・台北局」の体制を取っており、これは、台北は「中国の一部」という扱いに他ならない。またマスコミの台湾関係の記事を見ると、「….台湾の民は…..」という表現を使わず、「台湾の人々は」という表現を使っている。そこに、言わずと知れた「台湾を国扱いしてはならない」という北京の目が光っていることは言うまでもない。⑤昨年好評を博した「台北國立故宮博物院展」のポスター・入場券も、“国立”を削ったポスターが出回り、一悶着を起こし、寸前に開催中止の動きもあった。北京側から見れば、「台北故宮博物院展」が望ましく、その辺の事情を主催する一部のマスコミが忖度したのである。⑥また、日本の中学高校用の社会科の地図帳では、中国の国境が台湾の東沖に引かれていることはよく知られている。中国側の主張をそのまま受け入れていることは言うを待たない。文科省の検定制度に抗議する先生方も、中国の主張には沈黙を決め込んでいる。ちなみに、台湾側の地図は、台湾を中心に中華民国(台湾)と記し、中国大陸を支配している中華人民共和国の名前は書かれていない。

ここまでで講義時間終了、以下は、レジメにある項目を記す

【7】台湾の暗い、陰の部分:台湾“幽”情

(1)深層に残る外省人と本省人の不和 2.28事件(1947年2月28日)[死者:28000人]

・映画『情城市』(1989年):1945~1949年の台湾社会の変動を扱う(ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞受賞)。台湾社会でタブーだった2.28事件も扱う。

(2)戒厳令の時代(1949~)→白色テロ横行

(3)雑誌『美麗島』主催のデモ→美麗島事件(1979年:高雄) 無許可の世界人権デー集会         官憲と対立

一方で、台湾民主化への道

・戒厳令解除(1987年by 蒋経国)[38年間:世界でも最長の戒厳令であった]

蒋経国:蒋一族の世襲の否定、「私も台湾人である」(蒋王朝は2代で終了)

・野党結成(1986年:民進党など、1989年:合法化)

台湾国民による総統直接選挙(1996年):

・“台湾人に生まれた悲哀”(李登輝)「於:司馬遼太郎との対談」(1994年)

→台湾の人間として生まれてきたにもかかわらず、台湾というアイデンティティさえ主張できない悲憤

・台湾人アイデンティティ:“私は台湾人”1990年代後半から増加

・2015年1月公表:61%が「私は台湾人」、3.5%が「私は中国人」。残りのほとんどは「中国人でもあり台湾人でもある」(32.5%)  by 国立政治大学選挙研究センターの調査