第112回セミナー報告 「サンチャゴの道」行くことは帰ること!

■ 第112回セミナーが開催されました。
 日時: 2025年1月25日(土) 13時30分~15時30分
 場所: 湘南高校 歴史館スタジオ
 テーマ: 「サンチャゴの道」 行くことは帰ること!
 講師: 河合 恒二氏 (全40回生)

「サンチャゴの道」行くことは帰ること!

先日のセミナーに参加して頂いた方々に御礼申し上げます。
当日話したことの要点を報告させて頂きます。

1) サンチャゴの道とは:サンチャゴ・デ・コンポステーラというスペイン北西部にある人口約10万人の街に向かうヨーロッパ各地からの巡礼の道のことです。何本かの巡礼道の内、最も知られていて巡礼の数も多いのがフランスの道と呼ばれるピレネー山脈を抜けてスペインの北部を横断する約800キロの道程です。

2) サンチャゴとは:キリスト12弟子の一人聖ヤコブのことで、Santo JacobがSantiagoになったものです。英語では、Jamesで、Bond もDeanもヤコブなのです。
サンチャゴは、中世においては、ローマ、エルサレムと並ぶカトリックの三大巡礼地の一つで、北欧も含めヨーロッパ各地から巡礼が訪れました。多い時、12世紀から13世紀には年間50万人を数えたといわれています。

9世紀初頭、大きなホタテ貝に包まれた遺骨が発見され、これはエルサレムの近くで殉教した聖ヤコブの遺骨がこの地方に運ばれたという古くからの言い伝えと結びついて、サンチャゴの遺骨が発見されたということになり、ここに聖堂が建てられ、11世紀頃から訪れる巡礼が増えてきました。各地の王侯貴族や修道院が宿泊施設を整え巡礼を助けました。

当時、イベリア半島は、北部の山間部を残してイスラム教徒に支配されていて、キリスト教世界の最果ての地にサンチャゴ・デ・コンポステーラは位置し、そのため、カトリック圏を保持・拡大するためにローマ法王もサンチャゴを優遇しました。1122年、カリスト2世は、サンチャゴの日、サンチャゴの墓が発見された7月25日、が日曜日になる年を「聖なる年」とし (5,6年に一度)、聖なる年にサンチャゴに行くと、天国に行けるとしました(ローマへの巡礼は25年に一度聖なる年)。

3) 自分とサンチャゴの道:
私はサンチャゴの道を2回歩きました。
1971年から75年までスペインのグラナダとパンプローナ大学の外国人コースに学び、「ブルーガイド・スペインの旅」(実業の日本社) を書き終え (共著)、1974年の12月から翌年の2月まで帰国前に歩きました。中近東からアジアを廻って帰国しようと考えていたのですが、もっとスペインのことを知りたいと、ガイドブックを書いたときに調べたサンチャゴの道を自分で歩こうと思いました。その後、2回ほど車で行く機会がありましたが、退職後数年経つ頃からまた歩きたいと思い始め、最初からちょうど40年後、68歳になる年、2014年の7月から8月に再度挑戦しました。

ここでは、それぞれの巡礼行から記憶に残るエピソードを述べさせて頂きます。

4) 巡礼証明書:巡礼を始めるに当たり、巡礼協会にて2ユーロで巡礼パスポートを購入します。これがあると巡礼用宿舎に泊まることが出来ます。また、サンチャゴに到着後、これを見せると100Km以上歩いた人は巡礼証明書を貰うことが出来ます。

5) 40年で変わったこと:一番変わったのは巡礼道の環境でした。最初に歩いた時は、巡礼のための道など有りませんでした。だから、多くの行程は、自動車の通る道路わきを歩きました。2回目に歩いて感心したのは、巡礼用の道が整備されていて、勿論舗装などされていない細い道ですが、分かれ道や、わかり難いところには必ずサンチャゴの道を表すホタテ貝の表示か黄色い矢印が出ていたことです。

また、以前は、巡礼用のアルベルゲ(ホステル)などもなく、普通のペンションかホテルに泊まるかお願い・交渉して民家に泊めて貰うしかありませんでした。
サンチャゴの道は、世界で初めて道として1993年に世界遺産に登録され、その前後から急激に整備されたようです。

6) 最初の夜はクリスマスイブ、一番長い夜:1回目の時は、12月24日の午後の3時過ぎからピレネー山脈のフランス側の小村、サンジャンピエデポーから歩き始めて、13キロ歩いてスペイン最初の村、バルカルロスに5時半頃着きました。ペンションを数件回りましたがいずれも満員とのこと、これはクリスマスイブだから客を止めたくないのだと気が付きました。公園でワインを飲みながら1974年前に身重の奥さんが馬小屋で出産するはめになった男性の苦労を偲んでいました。すると、12時に教会の鐘が鳴り響き多くの人が入って行くので、自分も行くとミサが始まり、終わったら皆と同じように牧師の抱く赤子像にキスして出ました。1軒居酒屋が開いていて、そこに行くと、2年位前にヒッチハイクで載せて貰った夫人に会い、事情を説明したら、居酒屋の主人に話してくれて、2階の部屋に案内されベッドに入ったのは1時過ぎ、巡礼行で一番長い夜になりました。3日後に、以前住んでいたパンプローナの下宿を訪ねると、信心深いセベラ小母さんは、「コウジがキリスト像にキスしたから神様がその奥さんに会わせてくれたのだ」と喜んでくれました。

バスク地方の山村バルカルロス、塔が教会

7) 巡礼行で出会った人たち:最初の時は、他に歩いている人なんか一人にも会わず、巡礼なんて珍しがられましたが、(ましてや東洋人)、2回目は、巡礼宿ではいろんな人と話し、それも楽しみの一つでした。

ロンセスバージェスで同室となったヘスス夫妻とはパンプローナでも再開し、彼らが出会ったスペイン人数人とパンプローナの旧市街をはしごしました。(中央がヘスス夫妻)

エステーラのアルベルゲでは、スペイン人の女性4人と一緒のテーブルで昼食しました。二人はサン・セバスチャンからの学生、一人はビルバオからの看護師さん、もう一人はマドリッドからのルックスも話も魅力に溢れる人で、また次に会う機会を期待したのですが、会えずじまいでした。

プエンテ・デ・ラ・レイーナ
※王女の橋という意味で、巡礼道で最も由緒のあるローマ橋が残っています。

13歳の娘さんと歩く

カスティージャ地方、遠方に巡礼が見える

サンチャゴまで500キロの標識の前で写真を撮る巡礼たち


8) 新聞記事:最初に歩いた時、カステルデフェルツという村で、レストランで隣に座った4人の男性はABCという大新聞社の人でした。当時、巡礼は珍しく、近くの旧修道院跡に連れて行かれインタビューされました。「サンチャゴの道を歩く日本人」というタイトルで記事になったのですが、2回目に出発する前夜、明日からまた歩きに行くが「40年後にまた巡礼する日本人」とかいうタイトルで記事にしないかとコピーを送っていたのですが、ABCの記者からログローニョという街で取材されました。このABCだけでなく、道中、二つの地方紙からも取材され記事になりました。
(40年後に「道」に戻る)

右の写真は50年前 (28歳)、左は10年前 (68歳)。体格は殆ど変わっていませんね?

「スペインに恋した日本人が、若い時に歩いたサンチャゴ巡礼道に戻る」とのサブタイトルで、40年間の違い(歩く距離や懐事情、巡礼道の環境の違い等)を述べています。
右下に最初の記事があります。

(講演のタイトルは、別の新聞の見出しから、自分にとっては、行くというより、過去に戻るという気分、と述べたことから取りました)

9) 入院:テレビ局からも取材申し込みがありました。カスティージャ地方を代表する街ブルゴスに着いた頃で、その数日前から足が上がりにくくなる等の体調異変を感じていましたが、40年前に取材されたカステルデフェルツで、という希望なのでそこまでは、と少しびっこを引きながら歩き着きました。取材を終え、体調を説明したら、200キロ離れた彼らの街、バジャドリッドの病院まで車で連れて行ってくれました。救急病棟で診察・検査されたら、翌朝、硬膜下血腫で頭から溜まっている血を抜くと言われ即入院で翌日手術されました。

硬膜下血腫とは頭を強打した時、脳と頭蓋骨の間(硬膜下)に内出血することで、出発前1カ月頃に頭を強打したのを思い出しました。1週間入院し、退院後は友人の住むバルセロナで1週間療養し、再検査で許可され巡礼道に戻りましたが、レオンという街から復帰しましたので120キロほど中抜けしてしまいました。(全て保険でカバーされました)。

10) 復帰できて幸運:復帰してから最初に泊まったアルベルゲには、英国男性、米国男性、イタリア女性、イタリア男性、仏女性、ベルギー人3人、アイルランド女性と一緒でした。共通語は英語で、夕食の時にどうして巡礼をしているのか、今までの苦労とか話し合いました。私は、40年前に歩いたことも話したのですが、皆さん関心を持って聞いてくれました。

米国人男性Davidとは共通の知人 (私とはパナマで知り合った) がいて驚きました。

スペインの中部、カスティージャ地方はメセタと呼ばれる海抜500~700mの平坦な地に小麦、とうもろこし畑などが続いていますが、その中の真っ直に伸びる1本道を、朝日を背に長く伸びた自分の影を追いかけながら歩くのは気持ちよく、再び道に戻れたことを感謝しました。巡礼道は東から西に延びているので、朝日を背に、夕日に向かって歩きます。コンポステーラとは、Campo de estrellas(星の野原) という意味にとれ、中世では、天の川が地に接する所にあると信じられていたといわれます。

カスティージャ地方からガリシア地方に入ると山と緑が多くなりますが、その最初の村がオセブレロです。アルベルゲで働くボランティアは2週間交代で、ベッド (部屋) は無料ですが、自宅からの交通費を含め食費等全て自己負担 (勿論無給)、とのこと。オセブレロのドイツ人ボランティア夫婦は、毎夏、1か月働き、3年目だそうです。自分は巡礼道を歩くことはできても、アルベルゲのボランティアを1か月 (たとえ1週間でも) することはとても無理な相談と、感心しました (こういう人こそ天国に行ける!)

11) ガリシア名物のタコ料理:サンチャゴまで約100キロのサリアという村あたりから巡礼の数は増えてきて、(100キロ以上歩くと証明書が貰え、天国に行ける?)、宿探しが大変になります。最後の4日間は宿探しで苦労しましたが、山の中、ユーカリ林の中を歩くのも気持ちよかったです。

サンチャゴの旧市街は、石造りの回廊になっていて、その中にレストランや土産物屋が並んでいます。1軒のレストランで、楽しみにしていたPulpo a la gallega(ガリシア風茹でタコ)をつまみにガリシア名産のリベイロという白ワインをじっくりと飲みました (1回目もそうでしたが、これが一番の楽しみでした)。夕方、カテドラルで天井からぶらさげた大香炉 (botafumeiro) をゆすることで有名なミサに参列しました。聖体拝受で、感極まって涙する巡礼が多く、その喜びは門外漢の自分にも想像できました。

(ガリシア地方特有の村の広場、左にオレオという穀物倉庫)
12) 2回目の巡礼中に考えた事:
世の中、クリミア、シリア、スーダンなどでは毎日多くの人が命を落とし、家族と家を失い悲しむ人がいるなかで、肉体的にも経済的にも恵まれている限られた人が世界中からやってきて歩いている、その中で、最終目的地であるサンチャゴに着ける人は、それぞれの人生の幸せの頂点にいるのだと思いました。

(スペインを代表するバロック様式のサンチャゴの大聖堂)
それならば、「幸福のおすそ分け」があってもいいのではないか、と思い始めました。サンチャゴに着いて、巡礼証明書を貰う時に、皆が最低10ユーロでも寄付すれば年に1,2億円くらいにはなるのでは、そのお金を、UNICEFやUNHCRといった国連機関に寄付すれば、自分が天国に行ける、という幸福感を悲惨な日々を過ごしている人におすそ分けができるのではないか、と考えました。道中、サンチャゴ巡礼道協会の会長のメールアドレスを聞き、彼女にメールをしました。最初のメールには、面白い、と会長は答えてくれましたが、数回のやり取りの後、サンチャゴに着いてHostal de los Reyes Catolicos(15世紀に建てられた救護院で現在では最高級のパラドール、国営ホテル)で久しぶりにパソコンに出会え開けてみたら、会長からのメールがありました。

「あなたの提案を理事会で検討しましたが、それは協会の目的には含まれていませんので協力することはできません、あなたのプロジェクトが成功することを願っています」と結ばれていました。
サンチャゴに着いても喜びがもう一つ、という気持ちだったのは、入院のため完歩出来なかった、ということもありますが、自分の思いが伝わらなかったという思いが強かったからだと思います。

13) その後の自分:2回目の巡礼行から10年が経ってしまいました。帰国の翌年から湘南高のPTA会長を2年務め、地域でもいろんな団体の委員をしてきました。老人会長もしていて、多くの元気な老人と知り合えましたが、皆さん、80歳を過ぎると体中にガタが来る、と言われ、85歳を過ぎると、活動をやめてしまう人が多いです。自分も、80歳までが勝負、と思い始め、昔、24歳の時にスペインに行ったように、またどこかに夏季留学したい、スペイン語に近い、ポルトガルかイタリアにしようと思い始めています。来年3月で任期が終わるので、来年の夏には (10月に80歳)、先ずはポルトガルに1カ月留学し、そこからサンチャゴまで歩くのが今の夢です。最後までお付き合い頂きありがとうございました。

講演後、高校時代の写真をカラー化しての投影会など、同窓会もおおいに盛り上がりました。
 

 

湘友会セミナー委員会