第40回湘友会セミナー報告

  • 日時: 4月23日(土) 午後2時~4時
  • 場所: 湘南高校歴史館スタジオ
  • テーマ: 「三陸漁村の被災と復興の諸課題―復興に関わる立場から」
  • 講師: 重村力氏 (39回生 建築家、Team ZOO いるか設計集団、神戸大学名誉教授、神奈川大学客員教授)

第40回湘友会ミナーは講師に建築家の重村力さんをお迎えし、「三陸漁村の被災と復興の諸課題 (東日本大震災の復興に関わる立場から)」と題して4月23日に開催されました。重村さんは神戸大学名誉教授、Team ZOO いるか設計集団主宰、神奈川大学客員教授を務められています。阪神淡路大震災においては、神戸の自宅での災禍の体験と、その後の復興での「安全と共生」の実践の取り組みをされています。

セミナー当日は、4月14日に発生した熊本地震の余震の災禍が続く中で開催されました。
重村さんからは、今後に発生が予測されている湘南・神奈川地域の大地震と直後の津波避難に向け、このセミナーが被害を最小限にすることに少しでも役立つことができればと、大切な示唆がありました。

参加者の関心の高い津波避難の重要点は、セミナーが進むにつれて明らかになりました。
津波は地震が発生したら、直ちに高所に避難する以外に対策が無いことが、分かりました。過去の津波の記録を参照して、高台 (あるいは津波避難ビル屋上) への迅速避難路を地域ごとに設置確保し、避難訓練を怠らないという基本を実践することが大切でした。地域・学校の迅速な集団行動と危機意識の継続・伝承が津波避難に必要とされています。

※相模トラフで大地震 (最大M8.7津波高さ14.5m) が起きた場合、津波の到達時間は発生より 8分と予測されており、セミナーの開始前に鎌倉市津波シミュレーション動画が上映されました
………鎌倉市公式ウェブサイト: 鎌倉市 津波シミュレーション動画
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セミナーでは、重村さんは、東日本大震災の三陸漁村集落の復興に取り組まれた実践の報告から 5つの重要な視点を提示されました。

①高所移転と適正な土地利用  ②防潮堤をめぐる問題点  ③避難路および避難施設と減災という考え方  ④津波教育・伝承  ⑤復興計画

の5つです。順を追ってセミナーの要点の報告をします。
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① 高所移転と適正な土地利用

明治・昭和三陸津波の到達線より高台居住の原則を守った人たちは津波被害を免れました。実は、戦後の引揚者をはじめとする流入者や帰還者による人口増加では、高台の適所に住めず、やむなく低地に居住するようになった経緯がありました。また低地に人の集まるコミュニティーセンター等をつくる集落計画がすすんでしまいました。一方、各集落の神社は必ず高台にあり、延喜式神名帳(927年)に名前のある神社は、ほとんどが今回も津波被害を免れていました。これは太古の昔から津波被害のあった三陸海岸では、高台になかった神社社殿がすでに淘汰され、高台のものが今日まで残ったと考えられています。津波対策においては津波遡上の記録より高い住まいの立地条件が、昔も今も基本であると、セミナー参加者は認識しました。
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② 防潮堤をめぐる幾つかの問題

防潮堤は、そのものが漁村と海との関係を断ってしまう一面があります。そして海(津波)の状態が見えないことによりかえって危ないことになり、さらに防潮堤に依存することによって、危険地の低地居住者が避難しなくなるという不測事態に至ります。また、防潮堤のどこかに河口の樋門(ひもん) や出入りの閘門(こうもん) をつくらなければならず、常時万全ではないという現実があります。東日本大震災では樋門を閉めに行った226名の消防団員の尊い命が犠牲になってしまいました。ITの時代の今日、普段より樋門や閘門を遠隔管理できるように、いろいろ工夫されていますが、最終的には機械的な閉鎖になり、異物の除去など人の手による作動の補助がいることになります。防潮堤建設には時間がかかるばかりではなく、力ずくで津波を防ごうとする防潮堤だけに、今後の安全の全てを委ねるわけにはいかないと例を示しました。

閑話休題、「稲むらの火」の実在の人物、濱口梧陵 (はまぐち ごりょう 1820~1885年) の紹介がありました。濱口が安政大地震(1854年)で、自身の稲むら (稲束を積み重ねた物) に火をつけて村民を高台に導いて津波避難を成功させた話は有名です。後に濱口の築いた、和歌山県広川町に残る長さ600m、高さ5mの防波堤は、以降の津波災害を最小限にしただけではなく、現在では松の繁るエコな防波堤となり美しく風景に溶け込んでいました。このような環境共生の築山のような防災海岸があればと、セミナー参加者は、濱口梧陵の夢の実現に共感いたしました。


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③ 避難路および避難施設と減災という考え方

大船渡市立越喜来(おきらい)小学校では津波避難対策として避難距離を最小限にするために、2階から直接高台に繋がる非常通路を、震災前に設置していました。そして日ごろの津波避難訓練の成果で、今回の津波では間一髪、全員無事に避難でき、国内外から大変な評価を受けました。また同大船渡小学校では、地震直後に迅速避難する中で、職員が津波をウォッチし、一刻も早く高台へ避難することを指示することもできました。この事から学ぶことは「事前の適切な避難路の設定と通路の整備。津波周知と適切な行動。津波状況の持続観察と迅速な行動。訓練してきた集団の維持が重要。」と重村さんは力説されました。また、重村力さんが復興に関わった福岡県福岡市玄海島の共同住宅では、階段・エレベーター棟を設けて最上階から裏山までを空中ブリッジで結び、普段の生活路を造っていますが、これは津波常襲地なら避難路にも役立ちます。海岸に山の迫る地域では、高齢者の避難に配慮した階段・エレベーター棟がこのような方法でつくれると、重村さんは提案されます。

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④ 津波教育・伝承

不幸にして東日本大震災では、多くの津波犠牲者が発生しました。その一方で、明治三陸大津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年) の実経験を持っていないにも関わらず、伝承を守り抜き、津波に備えた人々は、どのようにしてその習慣を身につけ実行したのでしょうか。その方法の一つ目は、石碑でした。「高き住居は児孫の和楽/想(おも) へ惨禍の大津浪/此処(ここ) より下に家を建てるな/明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て/部落は全滅し、生存者、僅かに前に二人後に四人のみ/幾歳(いくとし) 経るとも要心あれ」 岩手県宮古市の姉吉地区にある、大津浪記念碑の碑文です。三陸の津波被害地域にはこのような石碑が数多くあり、大切に守られていました。その二つ目は、素晴らしい「学校教育と訓練」でした。小学校の児童劇では、大津波劇をロールプレーでして徹底していました。そこには、世界に誇る地域に根差した教育の成果がありました。油断せずに備える力を地域・学校でつくりだすことが、やはり重要でした。
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⑤ 復興計画

津波対策の一つ目は「多重防御」、二つ目は「高所移転」、三つ目は「中心性」と重村さんは分析されました。
また復興の何が課題かといえば

(1) 復興の先が見えない  (2) 全体を見通す人が少ない (地区の復興委員会が唯一の可能性だが、専門家派遣の仕組みが無い)  (3) 集落研究・住宅研究が足りない  (4) 未解決問題が数多くある

といったことが挙げられました。
こうした中で、重村さんは、地域に住まう方々が集まる場所が必要と考え、フランス政府からのフランス基金の建設費支援で「はまらいん」という名の集会施設をつくられました。別の集落では、伝統家屋に伝わる「オカミの間」を中心に考えた「オカミの家」を設計提案されました。そして、津波に流された貴重な気仙沼市大島漁業史資料を再生して、三井物産環境基金・神奈川大学ボランティア駅伝事業の支援を得て「大島漁協文庫」を新たに建設されました。



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セミナーのまとめでは、「阪神大震災から東日本大震災に至る過程で、災害対策の反省を生かした進化がみられること。そして地域社会と地域経済の復元力を働かせて、持続的復興をめざす姿勢が生まれてきたこと」を説明されました。さらに分析は世界の自然災害後の復興に及びました。

セミナーの結語で重村さんは、「自然災害は避けられないので、被害を最小にする減災という備えが大切だ。それにはコミュニティの復元力が原動力である」と日本の活力ある地域社会の持続性に期待を寄せられました。

(以上)