第46回湘友会セミナー報告

「湘友会セミナー」第46回は24回生の松原明さんを講師に迎え、演題は「スポーツ記者人生 半生記」。10月8日(土)の14時から歴史館スタジオで開催されました。

松原さんは、青山学院大学英米文学部卒業後の昭和28年に日刊スポーツ新聞社へ入社し、その翌年には中日スポーツへ転社すると、85歳になられた今日まで「スポーツ記者人生」を歩まれてきました。

昭和21年に文武両道の湘南高校サッカー部が全国優勝した3年後、松原さんは青山学院大学に入学すると、青学サッカー部の創設に加わり、学生部長に就任したのが幸運の扉を開いた最初だと回想されました。大学4年生になり、就職難の当時に日刊スポーツ新聞社に採用された同期生は僅かに3名でした。入社するとプロ野球の担当として伝説の巨人軍4番打者、川上哲治選手らを家庭訪問し、水原茂監督からは野球のユニフォームの着方を教えられたことなど楽しいお話しをされました。松原さんが中日スポーツに転社をした頃には、中日ドラゴンズが日本シリーズで初優勝し、天地俊一監督、エースの杉下茂投手を取材して「スポーツ記者への道」がはじまりました。

松原さんが高校、大学と続けたサッカーは「日本のサッカーは弱いから記事にならない」時代を経て、プロ・リーグが開設された1993年頃から新しいサッカー文化が生まれ、「欧州のように都市名を名乗り、その土地を代表する」ことで現在のように発展したと解説されました。サッカー場の芝の冬枯れを克服する研究が日々進み、日本全国に一年を通じて青々としたサッカー芝生が展開するまでになったことを話されました。

スポーツ記者人生が20年たった1973年に、アメリカンフットボールの招待で初めて渡米した時には、偶然にもカリフォルニア大学ロサンゼルス校でケガ予防の「テーピング」を驚きとともに初めて学んだそうです。

大リーグが日本でブームになったのは1995年に近鉄・野茂英雄投手が渡米し、ドジャーズで活躍してからと話されました。その頃の大リーグ取材のパイオニアのパリーグ広報部長の伊東一雄氏が、ラジオで大リーグ英語をマスターしたと聞き、松原さんも挑戦すると、ついには、ラジオを聞いてスコアブックが付けられるようになったそうです。それから約15年間をかけて大リーグ30球団全部を踏破、オールスターゲーム、ワールドシリーズ、公式戦を取材したということです。「初めのころは人種差別も残り、日本人には取材の門戸が開かれていない時代でしたが、今や大リーグはグローバル化し、自由に門戸を開放するようになった」と、日本人選手の大活躍と、応援する大勢のファンに支えられた、「スポーツ記者への道」を語ら れました。

最後に松原さんは、「健康に恵まれ、渡米でも事故にあわず幸いだった」こと、サッカーの本場、欧州にも取材に行けたが、「すべては健康第一である」こと、健康なスポーツ記者である限り仕事ができる職場環境と、「幸運な85年間」に感謝され、セミナーは終了しました。