(時間帯などは歴史館の開館日と同様)
会場: 歴史館内 GALLERY SHONAN ARTコーナー
標記の展覧会を歴史館内のギャラリーで開催しますので、お知らせと共にその経緯をお伝えいたします。
湘南中学校・高校の美術教師であった塚本茂先生が松本節さんの遺作展を1978年6月に母校の美術教室で開催されました。遺作展に展示された作品の他に未発表の作品を塚本先生がお手元に保管され、先生のご子息で現在パリ在住の画家塚本実さん
2017年に塚本実さんからこの作品をご遺族にお返ししたいのでご遺族を探して欲しいという依頼が同期生の友人である片岡にありました。美術関係に疎い片岡は湘友会で知り合った美術部関係者の40回生宮原、48回生伊藤と美術にも造詣が深い歴史館運営委員長の37回生石渡を加えた4人でチームを作り、作品の評価を卒業生の専門家にお願いし、ご遺族探しなどの作業もいたしました。
そしてメンバーの一人により遺作展で展示された松本節さんの作品が平塚市美術館に収蔵されていることが判明しました。また平塚市美術館からの情報でご遺族と連絡を取ることができましたが、ご遺族からはできれば湘友会に寄贈していただきたいというお返事でした。
湘友会にはご遺族のご要望を受けていただくことになり、この素晴らしい作品(水彩画)の展示を100周年記念事業の一環としていただくことになりました。額装などの作業は4人のメンバーの中の経験者を中心に担当して仕上げ、この度歴史館のGALLERY SHONAN ARTコーナーで展示会を開催することになりました。展示会後は歴史館で保管していただくことになっています。
松本節さんにつきましては下記のように1978年当時の塚本茂先生によるご紹介文をそのまま使わせていただきます。
文武両道に優れた先輩が残された作品を多くの方にご覧いただきたいと存じます。このような素晴らしい才能を持った方が若くして戦火に散ってしまったことはとても残念なことです。関係者一同心よりご冥福をお祈り申し上げます。
この展示会開催に携わったのは、卒業年度順に36回片岡・37回石渡・40回宮原・48回伊藤 又48回関さんがサッカー部員としての松本節さんについて調査してくださいました。他にも多数の方々にお手伝いいただきました。
父上は松本鼎という耳鼻科のお医者さん、母上は有名な木村武山(日本画家)の姪で絵画に対しては一つの見識を持った教養の高い婦人。そのおニ人の長男として生まれ、物心ともに恵まれた家庭に育った節君は、鎌倉師範附属小学校を経て湘南中学校の生徒になった。湘南ではサッカー部員というスポーツマンであると同時に又美術部員でもあり、在学中から美術の教師である私が感嘆するような作品を成したものであったが、その一つの思い出として、彼が2年生頃に描いた『梅』という作品がある。早春の鎌倉の切り通しの風景画で、天皇が横浜にお成りのとき、天覧の栄に浴した作品であった。以来、松本節の存在は全校の話題となり、私も面目をほどこした喜ばしい記念として憶えている。
彼の一風変ったところと言えば、いつも私の家へ来るとき、玄関を開けて『こんにちわ』というような挨拶をしないで、黙って入って来る習慣があった。戦地から一時帰国し、結婚する旨を私に報告に来たときも、そのようにして逢ったものであった。その時の別れに、買いたての油絵具12色の1セットを餞別にと差し出したとき『戦死などをしてこれがかたみにでもならなければよいが』と思わず私はつぶやいたのだが、それが現実となってしまったことが口惜しくてならない。
とにかく、在学中に帝展に入選するような天賦の才を持ち、今から思えば全く絵の虫のような人間で、もしも芸術一筋の道に進んだならば、私など到底かなわないような画家になっていたであろうと、しみじみと思い返しているこのごろである。戦争とは残酷なものであり、その戦争が僅か29才の若い海軍軍医大尉、松本節の命を駆逐艦もろとも奪い取っていったこと、そのあわただしい青春を思うと、私は彼がいたましくてならない。
今回、母校湘南の文化祭の美術展会場で彼の遺作展が私の発案で開かれることになった。この遺作展は84才でまだご健在の母上に是非見せてあげたいと思う。そして嘗ての同級生や美術部の仲間達が、この遺作展を見て彼を偲び、又在校生は若くして戦死した先輩の豊かな才能に感嘆し、それが一つの刺激ともなり、励みともなることを私は疑わない。そしてこれらのことが松本節の霊を慰めることになると思うものである。