第104回湘友会セミナー報告「校歌祭から学んだ校歌の持つ力」(前編)

■第104回湘友会セミナーが開催されました。

  • 日時: 2024年4月27日(土)14時~16時
  • 場所: 湘南高校歴史館スタジオ
  • テーマ: 「校歌祭から学んだ校歌の持つ力」
  • 講師: 土井康臣氏(全42回生) 綾瀬シティコーラス指揮者、湘友会校歌祭委員長
       渡部佑有氏(全97回生) 東京藝術大学音楽学部楽理科在籍、湘友会校歌祭委員
  • 今回のセミナーは校歌祭に深くかかわるお二人に校歌誕生に纏わる数々の物語、校歌祭から学んだこと、そして校歌の持つ力と校歌をいかに歌い継いでいくかを語っていただきました。

    ■セミナーの講演概要 (前編)

    <渡部さんの講演>
    「校歌誕生とこれから」
    • より客観的な視点で湘南高校校歌を捉えなおす
    • 校歌成立の時代背景、湘南高校校歌制定に大きな役割を果たした鏑木欽作氏についての調査、様々な人物へのインタビューによる現代の校歌像の考察
      • ① 校歌成立の背景
        • 校歌をつくる義務や要請、法律はないにもかかわらず、今日多くの学校が校歌を持つ。
        • 日本の音楽教育
          明治5年 学制公布、教科として「唱歌」「奏楽」が設けられた。旧制中学で音楽教育が必修となるのは昭和6年。
        • 祝日大祭日儀式での合唱
          明治24年6月制定、「祝日大祭日儀式に相応スル唱歌」、「国家ノ如キモノ」
          明治26年8月祝日大祭日儀式唱歌8曲制定、校歌を申請した学校が登場(忍岡尋常高等小)
        • 唱歌を規制する法令
          昭和6年に学校で歌われる全ての唱歌を取り締まる法令が出される。条件は文部大臣の検定を
          経た小学校教科用図書中に掲載されたもの、文部省が選定したものなど。
        • 各学校はどのように校歌を制定したか
          東京音楽学校に依頼。学校関係者による作詩・作曲。
        • なぜ?
          学校の校訓や方針を印象付けるため⇒母校愛の形成
          郷土教育運動推進における役割を担ったため⇒地域社会の共同体意識形成の「郷土の歌」に
          旋律よりむしろ歌詞に独自性を重視したため⇒旋律が似たものでも歌詞に差を付けられる簡便さ
        • 湘南高校校歌の誕生
          昭和8年制定。赤木愛太郎校長が制定を決意。当時の音楽教諭鏑木欽作氏が山田耕筰に
          依頼。北原白秋が学校に赴いて作詩。

        ② 鏑木欽作について (これまでまとまった研究や調査がされていない)
        鏑木欽作: 明治34年10月4日生。山田耕筰の最後の弟子。湘南高校 (旧湘南中学) の音楽教諭。山田耕筰に校歌作曲を依頼。
        • 調査対象・方法
          東京音楽学校(現東京藝術大学)在学時の資料。インターネットサイト。書籍・雑誌・新聞記事。
          インタビュー(橘杏子さん、井澤美佐子さん)
        • 東京音楽学校在学期間
          大正9年選科(唱歌)、同10年予科入学、同11年本科(声楽部テノール)入学、
          同15年本科卒業
        • 学内演奏会への出演:大正12年~15年に3回出演
        • 横浜混声合唱団の創設
          県内初の市民レベルの合唱団。大正15年~昭和6年頃、高木東六らと共に設立。指揮者を務める。国民音楽協会主催の合唱コンクールの神奈川県代表、全国第一位に。
          呼びかけの言葉:「吾人の熟す時、歓喜は歌となり、一致したる諸君の熱と喜びは自らコーラスとなりてほとばしる。音楽はわれら市民の愛のきずな、かつ心の糧。内容的建設の第一歩は音楽。殊に合唱にあると思う。奮って市民諸君の御入会を希望する。」
        • 市民の音楽を振興
          森永など企業の合唱団の指導。鎌倉、藤沢、横浜、川崎、横須賀市などで管弦楽団、合唱団の結成(特に終戦直後の昭和22年)。⇒「戦後の荒廃した人心を音楽を通じて回復するよう努めた」
        • 湘南中学(高校)講師
          昭和6年から30年間。同8年校歌制定。同24年県内の高校で初めての管弦楽団を組織。
          ⇒昭和34年に県国際コンクールに出場し第一位の知事賞受賞。
        • 卒業生 湯山昭(作曲家、昭和20年入学)
          「~先生は私に東京藝術大学の作曲科を受験させるよう、母を粘り強く説得していたのです。母はその熱意にとうとう根負けし、一度だけならと受験を認めたのでした。」
          湯山昭の東京藝大進学を後押しした。湯山昭は卒業後も感謝してよく鏑木の家に来ていた。
          才能のある人間を見つける才能が父にはあったと思う。」(橘杏子さんインタビューより)
        • 様々な教育現場で教鞭をとる
          県立横須賀中学校、同工業学校、同川崎工業学校、同鶴見中学校、藤沢市立第一中学校、師範学校、両国高等学校(作曲家 早川正昭)、洗足学園
          「縛られるのが好きではなかった。非常勤講師として、雑用は一切しないで音楽だけを教えていた。たいへんだっただろうけど本人はそれを望んでいただろう。」(インタビューより)
        • コールユーブンゲンの翻訳
          昭和8年第2巻発行、同10年第3巻発行、同31年第1巻発行
        • 神奈川県立音楽堂の建設 (令和3年8月神奈川県指定重要文化財 (建造物) 指定)
          建設経緯:昭和26年音楽堂建設の運動が盛り上がる。同27年音楽家懇話会の結成(音楽堂建設推進団体、その他のメンバーとして野村光一、團伊玖磨、高木東六など)
          昭和29年10月31日落成⇒県民の音楽聴取の機会・音楽活動の場を提供した。
          音楽堂の運営:昭和29年~37年音楽堂運営協議会の委員として活動、音楽教養講座の講師を数回務める。
        • 作曲
          湘南高校応援歌、高知高等学校生徒の歌 (尚志の歌)、都立小岩高等学校校歌
        • まとめ
          鏑木欽作は、神奈川県内の教育・市民の音楽活動の振興に大きな役割を果たした。
          市民と音楽の懸け橋となった人物(昭和52年神奈川文化賞受賞)
          その裏では妻スエ氏を始めとする家族の支えがあった。「父は母の助けがあってこそ、そういう(好きな)ことができたわけだから、幸せだったんじゃないでしょうか。」(インタビューより)

        ③ 校歌と私
        • 近年の校歌
          年代によって様々なバージョン、様々な編曲。一般生徒の歌う機会の減少。
        • 調査を通じて
          曲の中身だけでなく、それを取り巻く環境・人々・歴史を含めて「湘南高校校歌」は存在している。
          どの学校にも校歌はあり、それぞれの学校でそれぞれが一番。
          校歌に対する向き合い方・考え方は人によって様々。
          それぞれの歌い方・活動の仕方・考え方を認め合い、時代によって変わっていくことの面白さを楽しんでゆきたい。⇒湘南高校校歌は現在もつくられ続けている。
        渡部 佑有 (97回生)

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